それぞれの踊り場

北沢諒

 15mほどのプールだった。美穂の両手が交互に水を引き寄せるように動き、両足は手の倍ぐらいのリズムで水面から10~20cm下のあたりを叩いている。身長が伸び切った時、 手と足の指先が綺麗に一直線になる。美しいクロールだった。クイック・ターンを5回。 6回目で美穂は、プールの底に足をつけた。
「相変わらず、うまいね」
白い寝椅子にもたれて美穂の泳ぎを見ていた佐藤が独り言のように言った。美穂はゴーグルを外し、髪を後ろにかきあげながら、プールサイドの佐藤を見た。
「え?」
水から上がったばかりの耳には、よく聞き取れなかったらしい。美穂は首を少し傾けながら大きな目でもう一度、佐藤を見た。
「何でもない。競争しようか?」
「うん」
ポカンとした美穂の表情がサッと変化し、微笑みが顔に広がった。 この表情を見ると佐藤は、いつも踊り場を思い出す。美穂と初めて逢った階段の踊り場のシーンを。 佐藤は寝椅子から立ち上がり、1年前を思い出しながらプールに入り一緒に泳いだ。

 1年前。
佐藤は取引先の会社がある新宿の高層ビルに行った。7階にあるその取引先まで、佐藤はいつもエレベーターを使わずに階段を上がった。4階から5階に続く階段の踊り場だった。若く美しい女性が下りてきた。 佐藤は道を譲ろうとして、左に寄った。その女性も同時に右に寄った。2度、同じ事を繰り返した。3度目に佐藤は、立ち止まり笑った。その女性は『すみません』と言って佐藤の横を通り過ぎようとした。
「アリみたいですね」
「は?」
その女性は振り向きながらポカンとした顔をして佐藤を見た。
「あっちいってチョンチョン、こっち来てチョンって歌、知ってますか?童謡の」
彼女は、しばらくポカンとした顔を持続させていたが『ええ』と言うと同時に、サッと微笑みの表情になった。そして、軽く会釈すると、 踊り場から下へ続く階段を下りていった。微かに、甘い香水の匂いが漂った。佐藤はその後ろ姿が4階のフロアに消えた後も、 しばらくそこにいたが、また、階段を上り始めた。 しばらくして、取引先との打ち合わせが終わり、また佐藤は階段を使って下りた。するとさき程と同じ踊り場で、彼女に逢った。

「あ。さっきの……」
佐藤は踊り場に立ち止まった。
「アリの歌の……」
彼女は微笑みながら、佐藤を指差した。それから名前と電話番号を交換し、その2週間後には一緒に食事をした。その時、佐藤は彼女にある告白をした。渋谷にある地中海料理の店だった。外周に螺旋階段があり、そこを3階に上ると、その店の入り口だった。食事が終わり、小さな踊り場を下りる時、佐藤は立ち止まった。
「実は結婚してるんだ、俺」
軽く息を吐き、一気に言った。 ポカンとした表情の彼女は、息をのんだ。それから、吸った息をゆっくり吐き出した。「やっぱり、そうか」
「知ってた?」
「なんとなく」
「ごめん。でも……」
佐藤は、好きだという言葉を言いかけて、やめた。
「でも?……好き? 私も、好き。だから謝ることなんかない」
視線がゆるやかに絡む。彼女が目を閉じてその視線の意味に応えた。KISS。

「また、プロジェクト”F”になっちゃうのかなあ。私」唇を離すと彼女が言った。
「何、プロジェクト”F”って?」
「不倫のF。複雑のF。不公平のF」
「不倫してたの?」
「なっちゃったの」
彼女はそう言いながら、階段を下りた。佐藤もその後に続いた。 夜の渋谷の喧騒の中を歩きながら彼女は話した。短大時代から交際していた8つ年上の彼がいたこと。彼女が会社に就職する頃に、彼が結婚してしまったこと。 結婚相手が彼の上司の娘であること。不倫ドラマによくある設定がそのまま現実になっていたこと。
「好きっていう気持ちは結婚とは別のものだとかなんとか……。 彼はそう言っていた。私もそれでいいって思ってたの。それでホテルのフィットネス・クラブの会員権を買ってくれて。仕事のほうが忙しくなっちゃったみたいで。 それで彼がいなくなって、プールだけが残っちゃった」 彼女はそこまで言うと、佐藤を見てサッと微笑みの表情になった。
「嫌いになった?」
「まさか」
佐藤は慌てて、言った。
「佐藤さん。明日、泳ぎに行きません?」
「……いいけど」
「12時。お昼休みに抜けるから。会社のすぐそばなの。プール」

 彼女が勤務する会社の高層ビルの一角にそのプールはあった。都心のホテルの中にある会員制のスポーツクラブのプールだ。会員になるにはそこそこのワンルーム・マンションを購入できるくらいの会費が要る。 とりあえず、そんな余分な金をポンと出せる人間は、ゴロゴロいるらしい。このホテルの会員は定員にすでに達している ということだが、空きを待っている優雅な人々も2ダースほどいる。
そして会員になれない人のために、ウィークデーの10:00~16:00までの時間に限って、フィットネス・パックという名で、部屋とフィットネス・ジム、 プール、サウナ等の施設を利用できるというシステムもある。彼女と前の恋人は、当初何度か、そのシステムで昼下がりのプロジェクト”F”にいそしんでいたらしい。しかし、プールを彼女がとても気に入り、 恋人は彼女のためにいろいろと手を回して、この優雅な会員権を買ったというわけだった。

 そして、1年。
こうして美穂のプロジェクト”F”の相手は佐藤に入れ替わった。
佐藤はプールに入ると、微笑む美穂を見つめ、ブルーの薄く光沢のあるワンピースの水着の肩に軽く手を置き『ヨーイ、ドン』と言った。
水飛沫が上がり、佐藤と美穂は競争した。佐藤がプールの向こう岸に到着した時、美穂は微笑しながら、佐藤がプールから顔を上げるのを見ていた。
「私の勝ち」
ゴーグルを外し、微笑む彼女を見つめながら佐藤は言った。
「こういう関係ってツラクない?」
「こういう関係って」
「プロジェクト”F”」
「好き過ぎても、メンドクサ過ぎても、こういうのはだめよ。ツラクなったら、とことんツラクなるでしょ。 階段の踊り場みたいに上の階でも下の階でもない場所で恋をしてるだけだって、思ってるの。そう、踊り場。出逢ったのも、踊り場だもん」
プールの脇の(テニスの審判が座るような梯子つきの)椅子に座っていたインストラクターの女の子がチラッとふたりを見て、すぐ視線をそらした。 プールには他に誰もいなかった。小さな声で話しても筒抜けだ。インストラクターは、何も聞いていないというように、プールの水面を見つめるオブジェと化していた。 佐藤は、インストラクターを気にしている自分が、情けなかった。そしてツライ気分の正体に気付いた。 ある限られた時間を過ごすには最適だが、家庭を捨てようと言う気にはなれない。そんな自分のズルさが、ツライのだということが。

 美穂はプールの隅にあるステンレスの梯子に足をかけてプールの外に出た。身体に張りついた水着からいっせいに水がこぼれた。 首を強く振ると、髪の先から水滴がパッと散った。ガラス張りの壁に沿って歩くと、鮮やかなブルーと白い肌のコントラストが綺麗だった。 ガラス越しに射し込む昼下がりの太陽の破片が美穂の身体のカーヴに沿って弾ける。 美穂は佐藤のほうに顔を向けると、静かに微笑んだ。午後の逆光の中で美穂の笑顔は、何故か少し泣いているように見えた。
「私、着替える」
そう言って美穂は、ロッカーに続く短い階段を下りていった。佐藤もしばらくして、プールを出た。 短い階段は階下のロッカー・ルームに続き、そこには美穂の歩幅に沿って楕円形の小さな水溜まりがいくつか続いていた。
ロッカー・ルームに続く、階段の小さな踊り場にはひときわ大きな水溜まりがあり、涙みたいだ、と佐藤は思った。そう思うとフイに、胸が痛かった。
黙っていれば何もなかったことだ。そう自分に言い聞かせたところで、心の踊り場には少しずつ胸を痛める水溜まりが残る。
遊ぶように、ためらうように、隠れるように、休むように、溺れるように、抱きしめるように、蔑むように、微笑むように、ときめくように、誰もがそんな踊り場で、痛い心に触れている。

[踊り場] ①おどる場所。②階段の中途を広くして、足休めとしたところ。〈広辞苑〉